淀城跡を訪ねて|京都南の要衝を守った城と豊臣・徳川の歴史

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京都市伏見区にある淀城跡を訪れてきました。
現在は「淀城跡公園」として整備されており、城の建物は残っていませんが、石垣や堀などから当時の面影を感じることができます。

この淀という場所は、戦国時代から江戸時代にかけて非常に重要な地域でした。
宇治川・桂川・木津川の三つの川が合流する交通の要衝であり、水運の拠点でもあります。

そのため、この地には古くから城が築かれ、京都を守る戦略拠点として重要な役割を担ってきました。

今回は、そんな淀城跡を歩きながら、この地の歴史と見どころを紹介していきます。


淀城の前身「淀古城」と淀殿

淀城の歴史を語るうえで欠かせないのが、戦国時代に存在した「淀古城」です。

この城は室町時代から戦国時代にかけて築かれたとされ、
戦国期には豊臣政権と深い関係を持つ城となりました。

この城に関係する人物として有名なのが、豊臣秀吉の側室である淀殿です。

淀殿は、近江の戦国大名浅井長政と、お市の方の娘として生まれました。
織田信長の姪にあたる人物でもあります。

戦国の動乱の中で多くの悲劇を経験しながらも、やがて豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生みました。

その後、彼女はこの淀の地に関係を持つことから「淀殿」と呼ばれるようになります。

淀古城は、豊臣政権にとっても重要な拠点のひとつでした。

しかし1615年の大坂夏の陣によって豊臣家が滅亡すると、この城もまた役割を終えることになります。


徳川幕府によって築かれた淀城

豊臣家が滅亡した後、徳川幕府は京都周辺の防衛体制を強化します。

その一環として築かれたのが、現在の淀城です。

淀城は1623年、徳川幕府によって築城されました。
初代城主には永井尚政が入ります。

この城が築かれた目的は、京都を守るための防衛拠点でした。

京都は言うまでもなく日本の政治・文化の中心地であり、幕府にとっても非常に重要な都市です。

そのため、京都へ通じる交通の要所である淀に城を築くことは、軍事的にも大きな意味を持っていました。

また淀城は、徳川家康ゆかりの城である伏見城の廃材を利用して築かれたとも伝えられています。

伏見城は豊臣政権と徳川政権の両方に関わる象徴的な城であり、その資材が淀城に使われたという点も歴史の面白さを感じさせます。


水に守られた平城

淀城は、平地に築かれた「平城」です。

しかし周囲には広い堀がめぐらされ、水運を活かした防御構造となっていました。

城の周囲には河川や湿地帯もあり、天然の地形を利用した守りの強い城だったと考えられています。

城の中心には本丸があり、その周囲に二の丸や三の丸が配置されていました。
また本丸には天守も存在していたと伝えられています。

江戸時代を通じて淀城には譜代大名が配置され、幕府の重要拠点として機能しました。


現在の淀城跡

現在、淀城の建物は残っていません。

明治維新後の廃城令により、城の建物は取り壊されてしまいました。

しかし、本丸周辺の石垣や堀は今も残されており、当時の城の姿を想像することができます。

城跡は現在「淀城跡公園」として整備され、地元の人々の憩いの場となっています。

公園の周囲には堀の跡も残っており、城の規模を感じることができます。

また、すぐ近くには京都競馬場があり、週末には多くの人が訪れるエリアでもあります。

かつて戦略拠点だった場所が、現在では人々のレジャーの場となっているのも、歴史の移り変わりを感じさせます。


京都を守った城

淀城は、日本の名城のように大きな天守が残っている城ではありません。

しかし、その立地と役割を見ると、この城が京都防衛の重要拠点であったことがよく分かります。

宇治川・桂川・木津川が合流する交通の要衝。
そして京都へ通じる南の入口。

この場所を押さえることは、京都を守ることにもつながっていました。

戦国の時代には豊臣家と関わり、
江戸時代には徳川幕府の防衛拠点となった淀城。

この城跡には、二つの時代の歴史が静かに刻まれています。


まとめ

淀城跡は、京都の有名観光地と比べると目立つ存在ではありません。

しかし、この地は豊臣から徳川へと移り変わる歴史の中で重要な役割を担ってきました。

城跡に残る石垣や堀を眺めながら歩いていると、
かつてこの場所に城があり、京都を守る拠点として機能していた歴史を感じることができます。

華やかな城とは違った、
静かな歴史を感じられる城跡。

京都を訪れた際には、少し足を延ばして淀城跡を歩いてみるのもおすすめです。

このYouTube動画は『DJI Osmo Pocket3』で撮影しています。

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