東播磨の城跡をバイクでめぐる

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今回はバイクで兵庫県小野市から加古川市へ。東播磨に残る城跡をつないで、小堀城、堀井城、河合城、阿形城、来住城、志方城、神吉城、加古川城、野口城を巡ってきました。

現在の姿だけを見ると、田園の中の小さな丘や寺院、住宅地の一角など、城跡とは気づきにくい場所もあります。しかし、そこにはかつて赤松氏や別所氏、そして地域を治めた国人たちが築いた城館があり、戦国時代には「三木合戦」と呼ばれる大きな戦いの舞台にもなりました。

バイクで城跡から城跡へ走っていると、現在の町並みの中に、かつての東播磨の勢力図が浮かび上がってくるようです。

赤松氏の東播磨支配を感じる小野市の城跡

最初に訪れたのは小野市河合地区にある小堀城です。

河合地区は、中世の京街道と加古川が交わる交通・軍事上の重要な地域でした。ここには小堀城、堀井城、河合城という大規模な中世城館が近接して築かれており、赤松氏の東播磨支配を考えるうえで非常に興味深い地域です。

小堀城は中世の大規模な平城で、城域は約150メートル四方にも及んだと考えられています。現在も南西部には土塁の一部が残り、「西門」と伝わる虎口の痕跡も見ることができます。

さらに、三木合戦の際には城主とされる三枝氏が小堀城に火を放ち、三木城へ入ったと伝えられています。現在の静かな田園風景からは想像しにくいですが、ここも戦国の動乱に巻き込まれた城だったのです。

続いて向かったのが堀井城。

堀井城跡は現在「堀井城跡ふれあい公園」として整備されており、今回の城跡巡りの中でも、特に城の形をイメージしやすい場所です。

四方を堀と土塁で囲んだ方形の城館で、室町時代に赤松氏の家臣が居住した城と考えられています。外周の堀や土塁を眺めながら歩くと、中世の平地城館がどのような姿だったのかを実感できます。

そして河合城跡へ。

河合城は加古川右岸の平地に築かれた大規模な平城でした。かつては土塁と堀に囲まれた主郭を中心に、東西約400メートル、南北約300メートルにも及ぶ城域があったとされています。

現在は圃場整備によって城跡としての景観の多くが失われていますが、この地が東播磨の重要な拠点だったことを知ると、何気ない田園風景の見え方も変わってきます。

特に興味深いのが、嘉吉の乱の際に赤松満祐が河合城に入ったとされること。足利義教を暗殺した赤松満祐と、この河合の地が結びついていることからも、当時の河合地区が赤松氏にとって重要な場所だったことが分かります。

阿形城と来住城へ

河合地区を後にして、次は阿形城へ。

阿形城は舌状台地の先端部に築かれた中世城館で、主郭を中心に複数の曲輪や堀が配置されていたと考えられています。

戦国時代には別所長治の家臣であった油井土佐守勝利が城主とされ、三木合戦では別所方として戦いました。そして天正9年(1581)に羽柴秀吉によって攻められ落城したと伝えられています。

続いて訪れたのは来住城。

来住城は、来住氏の居城とされる中世城館です。現在は畑などになっていますが、高まりや堀の名残から、かつてここに城館が存在したことを感じることができます。

来住氏は清和源氏・多田満仲の子孫と伝えられ、天正年間には来住景政とその嫡子景利が別所方として三木合戦に参加しました。そして戦いの中で命を落とし、来住城もその後廃城になったと伝えられています。

小野市を巡っていると、赤松氏の時代から別所氏の時代、そして羽柴秀吉による播磨平定へと、地域の勢力が大きく変わっていった歴史が、それぞれの城跡から見えてきます。

加古川市へ入り、志方城へ

小野市からバイクを走らせ、加古川市へ。

最初に訪れたのは志方城跡です。

現在の観音寺周辺が城跡とされ、ここは櫛橋氏の居城として知られています。そして、黒田官兵衛の妻となった「光」の生まれた場所としても有名です。

志方城は本丸を現在の観音寺付近とし、その周囲に二の丸、西の丸などを配置した城だったと考えられています。

三木合戦では織田軍の攻撃を受けて落城。加古川市に残る城跡を巡ると、黒田官兵衛やその妻・光、別所氏、羽柴秀吉といった人物が、まさにこの地域を舞台に動いていたことが実感できます。

激戦の舞台となった神吉城

次に向かったのは神吉城跡。

現在は常楽寺が建つ場所が城の中心だったと考えられています。加古川西岸の河岸段丘上に築かれた城で、神吉氏の居城として三木合戦の重要な舞台となりました。境内には城主・神吉頼定の墓も残されています。

天正6年(1578)、野口城が落城した後、織田軍は神吉城へ攻め寄せました。

城主の神吉頼定は籠城して激しく抵抗。織田信忠を総大将とする大軍を相手に、20日余りにわたって戦ったと伝えられています。

現在の常楽寺は静かな寺院ですが、ここで繰り広げられた戦いを想像すると、その風景が一変します。

三木合戦というと三木城が中心と思いがちですが、実際には東播磨各地の城が連携し、織田・羽柴軍との戦いを繰り広げていました。神吉城も、その重要な一角だったのです。

加古川城と「加古川評定」

続いて訪れたのが加古川城跡。

現在の称名寺周辺が城跡とされ、今では市街地の中にその歴史を残しています。

加古川城で忘れてはいけないのが「加古川評定」です。

羽柴秀吉が播磨へ進出した際、播磨の国人・城主たちを集めて軍議を行ったとされる場所が、この加古川城でした。

しかし、この評定をきっかけに三木城主・別所長治の離反へとつながり、やがて天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけての三木合戦へと発展していきます。

城跡そのものが大きく残っているわけではありませんが、ここから播磨の戦国史が大きく動き始めたと思うと、非常に重要な場所です。

最後は野口城跡へ

今回の城跡巡りの最後は野口城跡です。

野口城は現在の野口神社付近を含む広い範囲に築かれていたと考えられ、中世の山陽道を押さえる重要な城郭でした。

現在は城としての遺構がほとんど残っていませんが、野口神社や周辺の町並みを歩くことで、かつてここに城が存在したことを想像することができます。

そして、この野口城も三木合戦の中で織田軍の攻撃を受けました。

三木城を中心に、野口城、神吉城、志方城など東播磨の城々が次々と戦場となっていったことを考えると、今回巡った城跡が一本の歴史の線でつながっていることが分かります。

バイクだからこそ感じられた「城跡のつながり」

今回巡ったのは、小野市と加古川市に残る9つの城跡。

小堀城・堀井城・河合城・阿形城・来住城・志方城・神吉城・加古川城・野口城

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それぞれの城跡だけを見れば、土塁や堀の一部が残る城、寺院となっている城、田園の中に痕跡を残す城、現在の市街地に埋もれている城など、その姿はさまざまです。

しかし、バイクで一つひとつの城跡を巡ってみると、それぞれの距離感がよく分かります。

「この城とあの城は、こんなに近かったのか」

「ここを押さえれば、加古川方面への道を監視できる」

そんなことを考えながら走るのも、城跡巡りの楽しさの一つです。

特に小野市の河合地区に集中する小堀城・堀井城・河合城は、赤松氏による東播磨支配を考えるうえで興味深い城跡です。そして南へ進めば、阿形城、来住城。さらに加古川市へ入ると、志方城、神吉城、加古川城、野口城へと続きます。

こうして巡ってみると、東播磨という一つの地域の中で、中世から戦国時代にかけて多くの城が築かれ、互いに結びつきながら歴史を刻んできたことが分かります。

今回もバイクで走りながら、城跡を訪ね、そこに残るわずかな痕跡から往時の姿を想像する城巡りとなりました。

城跡は、天守や石垣が残る「名城」だけが面白いわけではありません。

何もないように見える場所に立って、「ここに城があった」と知る。

そこから、その土地で起きた歴史をたどっていく。

そんな城跡巡りの楽しさを、今回もたっぷりと感じることができました。